「ストロベリームーン」は「綺麗」な恋物語|小説の感想

「ストロベリームーン(作/芥川なお)」を読みました。
家族の集まりで久しぶりに会った叔父が貸してくれた本です。
「姪は小説が好きらしい」と、ふんわりした認識を持ってくれている叔父、とても綺麗な本を貸してくれました。
自分では進んで読まないタイプの本です。
人から薦めてもらった本を読むのって、学べることが多いです。
興味深い体験でした。
今回は、「ストロベリームーン」を読んだ感想をお話ししていきます。
あらすじ
「ねえ、佐藤君、ストロベリームーンって知ってる?」ーー高校の入学式、1年生の佐藤日向は学校一の美少女・桜井萌と衝撃的な出会いを果たす。入学式に遅刻した日向は、その日向になぜか積極的にアプローチしてくる萌と、なんと出会った初日につき合うことに。日向と萌はメッセージのやり取りやデートを重ね、好きな人と一緒に見ると永遠に結ばれる神話がある赤い満月「ストロベリームーン」を見に行く。そんな幸せな時間を過ごしていたのもつかの間、日向は萌の余命が少ないことを知る。自暴自棄になった日向は、萌の母親から萌の日記を渡される。2人を待ち受ける運命は如何に?男子高校生の友情あり、日向と萌の純愛に涙が止まらない大号泣必至の1冊。
純粋で、綺麗な物語
読み終えて思ったのは、「純粋で、すごく、綺麗な物語だな……」でした。
心の綺麗な人がこの物語を読んで涙を流すのだろう、と感じるものがあります。
私は、この物語を読んで涙を流すには、心を汚しすぎてしまったようです。
叔父……、荒みきった心を持った姪になってしまってごめんよ……。
第一印象としては、「なんだか映画になりそうなお話」でした。
実際、映画化した模様。
登場人物は大体主人公のことが大好き
この物語のだいたいの筋はあらすじ(公式の内容紹介)で把握できるとおりです。
細かい内容は割愛します。
この物語の大きな特徴として私が考えているのは、登場人物のほとんどが主人公のことが大好きな点です。
メイン登場人物である「萌」はもちろん、主人公の幼馴染みも、友達も、大体みんな主人公が大好き。
「萌」の両親との間にはちょっと複雑な感じにはなりますが、それほど拗れた関係にはなりません。
「こういう出来事があったら、そりゃあそういう反応になるよなあ」
と、納得できる範囲ではありますし、このくらいで収まったなら良い方では、とも思える程度です。
登場人物全員にふんわり好かれている雰囲気のある主人公でした。
読んでいて、私はちょっとかゆくなってきました。
悲しみの物語
この物語は愛と悲しみの物語です。
これは間違いない、と思います。
この流れでこうなったら、そりゃあもちろん悲しいですし、泣きそうにもなります。
ですが同時に、「これは悲しいでしょう?」と言わんばかりに敷かれた筋道に、反抗してしまいたくなる気持ちもむくむく湧きました。
自分の中にある、「こういうことがあったらそりゃあ悲しい」部分を、そのまま示されているため、「そりゃあそうですわね」としか言えなくなってしまっています。
他の感情を抱くに抱けないと言いますか。
要らないこと考えずに物語に没入して楽しめたら、きっととても感動的な物語なのだろうな、とも思いました。
小説の書き手として気になった点
小説の書き手としては、気になる点はいくつかありました。
冒頭とそれ以降で視点の描写の仕方が変わっているものの、変えられた明確な理由がわからない点。
「萌」が初めて主人公の名前を呼んだとき、台詞の前後に一行空きが入れられていた点の二つです。
小説の視点の切り替えが気になった
まず、視点についてです。
本作ははじめ、三人称視点で書かれていました。
ですが途中から主人公の一人称視点に変更されています。
章の途中で変えられたというわけではないので、視点の区切りははっきりしていました。
しかし三人称視点に変えられた後もほとんどが主人公の視点で書かれていましたし、地の文も一人称視点で書かれていたときと同様に語り部の心情が書かれています。
後に、「萌」の視点からの心情描写を自然に導入する、というような目的があったのかもしれません。
それでも、主人公が語り部のときは主人公による一人称視点、その他の登場人物のときは三人称視点と分けて描写するのみでも対応可能に感じました。
敢えて物語の途中から視点を変えたのであれば相応の理由があるものだと思われるのですが、その理由がわからなかったため悩んでいるものがあります。
変更された章も、「ここからは三人称視点でなければ物語が成立しない」「ここから三人称視点にすることによって、よりストーリーが良くなる」といったものも感じられませんでした。
私はこのようなことが気になりましたが、この形の作品が商業作品として出版されていることから、きっと意味があることだったのだろうと思われます。
これらを読み取ることができなかったことから、私の読解力および小説の書き方への経験や知識不足を感じました。
小説の一行空きが気になった
次に、一行空きについてです。
一番印象に残っているのは、冒頭箇所の一行空きでした。
「萌」に主人公の名前を初めて呼ばれたときに、「」で括られた台詞の前後に、一行空きがそれぞれ入れられていました。
「萌」に呼ばれた名前(主人公のフルネーム)および、「萌」に初めて名前を呼ばれたことを、視覚から強調する以外の意図を見出すことができずにいます。
これは私自身の心情によるところが大きいですが、強調したい台詞や場面を、一行空きや記号によって表現するのを好まない、というものがあります。
描写などの文章の書き方によって強調し、読者に印象づけたいな、という想いです。
Web小説などの横書き表示の小説であれば一行空きを入れることで読みやすくしたい、との気持ちはわかるのですが……。
ここは単に、書き方の好みによるものかもしれません。
「マナーはいらない 小説の書き方講座(三浦しをん)」を読んでから妙に、見栄えだけを気にして空けられたとしか感じられない一行空きが気になるようになってしまいました。
とにもかくにも、色んな書き方を好む作家がいるのだ、と学ぶことができました。
- 小さなことが気になってから思うこと
ここまで書いてから改めて思ったことではあるのですが、私、ずいぶん小さなことを気にしていたようです。
たぶん、気にするべきことはこういうことではないんだろうなあ、と思ってもいます。
小さい引っかかりではあります。
これらの小さな引っかかりでも、作中で意図を理解できたら気にならなくなるのですが、今回はその意図を理解することができませんでした。
結果として、小さな引っかかりだけがずっと残ってしまったのだと思われます。
おわりに
ストーリーは単純明快で、難しいことは何もありません。
シンプルに愛と悲しみが描かれています。
そういった点では、良い物語だと感じました。
正直に申し上げますと、私には合わなかった、と感じています。
ですが私には会わなかったということは、こちらの作品が好き、という人もどこかにいるということです。私の好きは誰かの苦手、誰かの好きは私の苦手、という考えのもとでお話ししています。
しかしながら映画の予告を観ているとなんだか面白そうだな、という気がしてきました。観てみるのも悪くないのかもしれません。実際に観るかどうかは分かりませんが……。






